画像は自宅近くの市民プール北側に走る堤防上の市道です
現在は復旧し私も通勤道路として重宝しています
・・・あの時・・・
忘れることが出来ない7年前の出来事
ごくありふれた日常
だれもあのようなことが起きるなんて
想像もしていなかった
2011年3月11日(金) 午後2時46分
あの時私はリハ室にいた。
午後一番の患者さんを終えようとしたその瞬間、身体が横に持っていかれるような揺れに咄嗟に腰椎牽引をしている患者さんの所へ駆け寄った。ベルトで固定された状態でもしベッドが横転したら大怪我をしてしまう。大急ぎで牽引の緊急停止を試みるがあまりにも横揺れが激しく思うように患者さんを起こすことが出来ない。数秒後電気が途絶え動力を失った病院内は非常灯のスポットライトだけが光を灯していた。悲鳴をあげるような建物の軋む音。恐怖のあまり出したい声を堪えるかのような呻く患者さんたち。。。止む無く牽引装置が転ばないように両手で支えた…というより私自身が取り付いていないと立っていられないほどの激しい揺れ…そろそろ収まるよね…なんて患者さんとお互い励ますような会話が飛び出すも、とてつもない大きな第2波に襲われた。周りに気を配るだけの余裕などあるわけがない。私の周りにおおきな牽引ベッドがもう2台迫ってきた。挟まれそうになるのをなんとか抑え込んで耐えるしかなかった。揺れの激しさで1番診察室の扉が自動ドアの様に開きっぱなしになっている。院長と目が合ったがお互い言葉は出なかった。仙台で170秒(2分50秒)揺れたという報告をみたがそれ以上に長く感じた。 大崎地域震度6強 だれも経験したことのない大地震。
皆が呆然となりながらもお互いの安全を確かめ合う。院内の被害状況を把握し、2次災害の判定を行った。火の気の心配はなさそうだ。
急遽、院内会議が設けられ外来患者さんの帰宅作戦を講じた。治療する側は勿論、される側もそれどころではない心情は聞かなくても充分に分かる。電源が落ちてしまっているのでレセコン(会計のコンピューター)は完全に機能停止。治療の途中でもしかるべき処置を講じたうえで帰宅可能な患者さんは帰ってもらった。
予想通り外来患者帰宅困難者が数十名。院長の承諾で病院の車で送ることになった。
主に町営バス利用患者さんたちを第1弾に乗れるだけ乗せひとりひとり送る道中…通行の障害となったのは信号の機能が無くなったためだけではなく、地中に埋め込まれているマンホールが持ち上がり通行困難の箇所が多数。迂回に次ぐ迂回でそれぞれの患者さん方を送る。ブロック塀は倒れ電柱が大きく傾ぎ家屋が倒壊している様もひとつ二つではない。役場の近くにある公園では早速ブルーシートを広げ避難先として準備を行っている。とある道路わきには転倒した灯油タンク。ガラスの破片。鈍色の空の影響ばかりではない…町全体がくすんだ色に包まれている。。。大粒の雪が降りだし吹雪にかわってきた…道には帰ることが出来ない人々が所在無げに立ち尽くしている。あまりにも寒そうに立ち尽くしている高校生に声をかけた。迎えが来るらしい…連絡はつかないと…
最後の患者さんは鹿島台境まで送った。辺りは闇に閉ざされつつあり降雪が余計厳しさを増幅させているように感じた。
真っ暗な中自宅へ戻る。交差点は混雑しているが秩序よくお互いに通行することで大きな混乱はなかった。
自宅へ着く…良かった…傾きもなし。外見上は傷ひとつ負っていない。但し、電柱は大きく傾き電線が手に届きそうな距離までズリ下がっている。支線に電気供給しているトランスが中吊りになっている…これで我が家の電気開通が大幅に遅れることが決定的となった。事実隣りの他回線宅より三日遅い開通となった。
自宅に入ると覚悟していたことが起きていた…熱帯魚を飼っていた大きな水槽が二つとも割れて自宅内は洪水に見舞われたらしい…片付けられずに仕方なく洗面所に押し込まれていた。子供たちの迎えでそれどころではなかったらしい。大事に育てていたのに…仕方ない、もし水槽が割れなかったとしても熱源が絶たれているので生かしてあげることは出来なかったろう…
自宅自体は流石に地震に強いツーバイフォーだけあって壁紙のよじれひとつなく丈夫さを実証した。
やはり寒かった…とにかくあるもので夕飯を済ませ布団に潜り込んだ…
次の日の朝
自宅2階から通常見えない筈の川面が見える・・・!!?自宅が持ち上がったか堤防が下がったか…
堤防が大きく崩れ地盤沈下していた。いくら人工物とは言えここまで壊れるなんて信じられない。周りの何件かが全半壊している…昔からの知り合いの方の家も同様で自宅に呼び寄せたかったが避難しているらしく人気はない。情報が錯綜して避難所も十分に機能していないらしい。
兎に角、生活しなければならない。
嬉しいことに蛇口を捻ったら細いながらもきれいな水が出てきた。昨日出なかった現実もあるので貯められるうちに風呂場から鍋から貯められるだけ貯めた。
次の問題は、寒さと煮炊きだ。
自宅は電気に依存している環境である。便利なものは非常時に不便なことに改めて痛感。昔使っていた反射式ストーブを引っ張り出し使ってみようと試みたが芯がへたっていたようでうまく点火しない・・・これまた困った…
お湯だけでもいいから確保したい。!そうだ!外にバーベキュー用の竈がある。
風雪に備えタープを張り、木をくべて薬缶を置いたがさすがに普段使いの薬缶は真っ黒になったがお湯は確保できた。さっそく湯たんぽとペットボトルに入れ炬燵へ。ホンノリと温かい。これがあればとりあえずの寒さ凌ぎにはなる。土鍋でご飯も炊けた。無駄に思えた木っ端の蓄えが功を奏した。
地震翌日の病院…
入院患者さんがいる…二日前に人工関節置換術をした患者さんを筆頭に寒さ対策、合併症回避のための対策が急務だった。ライフラインは完全に止まり水が出ないのが大きな痛手だったが、翌日から何とか確保することが出来た。電源は非常用発電機があるのでレントゲン設備も何とか賄えた。ゆえに病院は閉めることなく患者さんを受け入れる。
外傷の患者さんが訪れていた。とある一人の患者さんが来院した。
「上腕骨骨幹部骨折」
本来であれば手術適応の典型例であるが、紹介するにしても他も精一杯の事態は変わりない。院長は当院管理下での保存的治療を選択した。
院長と相談して"ハンギング キャスト法"を選択した。ハンギングキャストを行うのは暫くぶりだ。入院を必要とし終日管理の元、徐々に解剖学的肢位に近づけるべくコントロールを行い数週後体幹キャストで退院するまで患者さんも耐えた。この治療法は仰向けで休むことが出来ない。患者さんに負担のかかる治療法である。…が、それを承知の上で励まし応援しながら骨癒合し上肢などの機能障害もなく治癒に至った。
今思い返すと、他にもいろいろあった。みんなが同じように懸命に動いていた。
津波や原発の影響はなかったが、ライフラインが途絶えた中でもあきらめなかったみんな。
突然泣けてきて涙が止まらない時もあった。
星の瞬く夜空を見上げると
いつも 思い出す
漆黒の街に降り注いでいた
今まで見たことのないほど輝いている
当時の星空を
fin
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