回顧録~わたしが整形外科入職を目指したきっかけ~

ここ古川の地に住み始めたのは今から25年前の平成5年(1993年)1月。

岩手の自宅から地元の整骨院に通いインターンをして4年8か月。有る想いを抱いて地縁も血縁もないこの地で暮らす決心をした。

引っ越しと云っても1000cc のちっちゃな車の後ろに布団一式と当座をしのげる程度の衣類、そして鍋とフライパン。暖房器具は小型の電気ヒーターひとつ。とりあえず最低限のいま生活できる程度のものを車に放り込んで走った。それは映画の劇的瞬間とは程遠い地味で寂しい出発だった。

独りで生活することは両親を含め家族全員、整骨院の師匠ご夫妻の想像を超えた行動だったに違いない。なぜなら祖父の整骨院を引き継いでくれるであろう確約を棒に振った行為。私以外の誰しもが無謀な出来事だと見ていただろう。なぜ独り暮らしを選んだか…そこには私にしかわからないある"感情"が関係しているから。

 

今でもよく覚えている。平成3年(1991年)のまだ肌寒い2月のことだったと思う。朝早く訪れた患者さんは通いの私よりも早く整骨院についていた様子で、右腕を庇うように左手で支えながら痛みに耐えた苦悶の表情で腰かけていた。その方はKさんと仰る70代ほんの少し前の女性の方。上半身を露わにした姿は右肩周辺が倍ほどに腫れていて明らかに大きな外傷があることは素人目にも判断できる容姿である。院長先生が固定を行うために準備をし始めているが、逡巡している私に介助するよう促しテキパキと固定し始める。

「右上腕骨外科頚骨折」

ご存知の通り、整骨院にはレントゲン設備がないため最寄りのお付き合いのある診療所に出向きレントゲン撮影含め御高診依頼をし出た診断名である。振り返るとNeer分類の2Part  frcture 許容範囲のDisplacementで保存療法も可能な症例であった。当然のことながらKさんには足繁く整骨院に通って頂いた。時間経過とともに骨髄からの皮下出血斑が甚だしい状況から徐々に吸収され2~3週経過後辺りから運動療法を開始し始めた。そのころ気づかなかったのだが右上肢全体が一般的な外傷に因る腫脹とは違う右上肢全体の腫れぼったさと赤らんでいる皮膚色。ちょっと気になる…肘関節や手関節の拘縮も気になる…少しずつ少しずつ決して暴力的にはならないように慎重に介助運動を始める。

…触ると痛い…骨折付近の痛みではない。骨折とは関係のない持たれている箇所の痛みがあると。

「!?」

骨折した部位の痛みなら理解できるがこれは果たして拘縮に伴う痛みなのだろうか…

いずれにしても拘縮の症状緩和の手立て~運動はしなければならない。生活の復帰には決して欠かす事の出来ない大事な行為である。患者さんをなだめながらオッカナビックリ後療法を行う。

運動を開始して3週ほど経過したと或る日。少し気にはなっていたのだがとうとう所見がはっきりしてきた。

皮膚色が照かりを帯びたどす黒い雰囲気に変化してきたのである。右腕から手指に至る全体にわたる変化で若干皮膚自体の萎縮も認められる。痛みはこのあと半年以上…およそ10か月を要して関節の拘縮、可動域の獲得も含め治癒に至った。気になる皮膚萎縮も徐々にではあったが最終的には本来の張りのある肌色に戻ってくれた。

 

わたしはまだこの時点では理解できていなかった。

骨折後の典型的な合併症であるこの症例を理解したのはもう暫く後のことであった。

 

佐々木整形外科に入って3年ほど経った或る日のこと。

この日は第1水曜日で当時の東北労災病院副院長であるO先生の専門外来の日。わたしはいつも通りO先生の介助に就き、訪れる予約患者さん方を迎え入れた。その中に注目している患者さんがひとり今日の予約に入っていた。その患者さんは前述したKさんと酷似した症例なのである。

O先生はその患者さんに対しこうムンテラしていたのです。

「必ず治るから諦めないでリハビリに通いなさい。大丈夫、ちゃんと良くなるから」

カルテには

『RSD』

患者さんが退室されてからO先生からの教授。

 『反射性交換神経性ジストロフィー』

学校当時、臨床概論で習っていた「ズデック骨萎縮」とこの瞬間リンクしたのだ。

ペインの領域では『CRPS』と表現する(学生のみなさん詳しく書きませんからお勉強してくださいネ)

 

臨床と座学

座学なくして臨床は成り立たず

しかし、臨床の経験はときに

人生の分岐点を変えるだけの力がある

また生きるための糧となる

わたしの場合は

"わからない"が自身の後押しをした

 

このままではいけない・・・開業にはまだ早すぎる

経験不足が私を大いに悩ませ焦らせていた。

学校時代の恩師を訪ね、勉学できる施設を紹介してもらい押しかけるように入り込んだ。

そこでは毎日が学びの連続だった

そして今がある。

 

長かったですね、拝読頂き有難うございました。

わたしの回顧録 当時書けなかった記録として

自分のために日記の様に残していきたいなとおもっています。